G黷ェナ汁句

November 15112003

 事件あり記者闇汁の席外す

                           宮武章之

語は「闇汁(やみじる)」で冬。各自が思いつくままの食材を持ち寄り、暗くした部屋で鍋で煮て食べる。美味いというよりも、何が入っているかわからないスリルを味わう鍋だ。そんな楽しい集いの最中に、ひとり席を外す新聞記者。なんだ、もう帰っちゃうのか。でも「事件あり」ではやむを得ないなと、仲間たちも納得する。句の出来としては「事件あり」にもう一工夫欲しいところだが、その場の雰囲気はよく伝わってくる。当人はもちろん、仲間たちもちょっぴり名残惜しいという空気……。だが、こういうときの新聞記者の気持ちの切り替えは実に早い。彼は部屋を出れば、いや席を立ったときに、もう切り替えができてしまう。新聞記者の友人知己が多いので、このことには昔から感心してきた。週刊誌の記者や放送記者などでも、およそ「記者」と名のつく職業の人たちは、気分や頭の切り替えが早くないと勤まらないのだ。いつまでも前のことが尾を引くようでは、仕事にならない。その昔、テレビに『事件記者』という人気ドラマがあったけれど、ストーリーとは別に、私は彼らの切り替えの早さに見惚れていた。社会に出ても、とてもあんなふうにはいかないだろうなと、愚図な少年は憧れのまなざしで眺めていた。どんな職業に就いても、誰もが知らず知らずのうちにその世界の色に染まってゆく。医者は医者らしく、教師は教師らしく、銀行員は銀行員らしくなる。酒場などで見知らぬ人と隣り合っても、およそその人の職業の見当はつく。「らしくない」人には、なかなかお目にかかれない。休日にラフな恰好はしていても、たいていどこかで「らしさ」が出るものなのだ。放送の世界が長かった私にも、きっと「らしさ」があるのだろう。だが、当人には自分の「らしさ」がよくわからない。そのあたりが面白いところだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 19122006

 猪屠るかはるがはるに見にゆきぬ

                           大石悦子

ろそろ年賀状を考えなければならない時期である。毎年のように干支を年賀状で意識させられることもあり、十二支の動物たち、ことに自分の干支にあたる動物にはどことなく愛情を感じる人も多いだろう。来年の干支である猪は、昔から田畑を荒らす害獣でありながら、一方で貧しい村の飢えを満たす益獣でもあり「恩獣」という言葉も見られる生活に密着した動物であった。歳時記のなかでは、晩秋に山から下りてくる生きものとしての猪は秋、身体を芯からあたためる薬喰いの一種としての猪料理は冬の季語として分類されている。大きなもので百キロ近い獣が横たわり、村の男たちの手で解体され、生き物が肉塊となっていく行程はさぞや圧巻だろう。その現場をおそるおそる覗く者は、刃物をふるう一種の興奮状態からやや離れた位置で猪と対峙しているように思う。屍となり横たわる猪の宙を見据える目を、まざまざと感じてしまう距離である。同書に収められた〈闇汁に持ち来しものの鳴きにけり〉となると、その持参された「鳴く」ものに傾く哀れは一層濃くなる。万葉集巻16-3885にある「乞食者(ほかひひと)の詠」は、生け捕られた鹿が、その肉のみならず耳も爪も肝も加工され献上されていく様子を事細かに詠った長歌だが、最後に「右の歌一首は鹿の為に痛(おもひ)を述べてよめり)」の一文が添えられる。もし、掲句に添え書きがあるとすれば、それはやはり「猪のために痛みを述べて詠めり」だろうと思われる。『耶々』(2004)所収。(土肥あき子)




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